
今村天主堂。田んぼの真ん中に忽然と現れる聖堂は鉄川与助の作。この一帯の潜伏
キリシタンが明治に大量にカトリック国ブラジルに移民した。'03年6月福岡県大刀洗町。集平 カトリック新聞に連載してる小説「ベガーズバンケット」の12月に載った第5話「その前年のクリスマス」はぼく自身の実力を超えた作品だった。2回読み切りの最後まで読んで初めて物語の全貌がつかめる。挿絵の田中雅子さんも何度も描き直して苦労していい仕事になったね。彼女はあそこを乗り越えることで次のレベルに行けたと思う。挿絵のアドバイスを電話でやりとりしながら思わず言ってしまったのは、貧困にあえいでいる人や身障者の人を絵に描いたり写真に撮ったりTV番組にする時に、ぼくらの哀れみの目や嫌だなと思う目で見るのではなく、神様はその人をどう見てるのか考えてみること。ぼくらには完璧にはわからないけど、きっとこの人たちは天国に行った時にはねじ曲がった体ではないと思うんだよ。ハンセン氏病の人は天国ではどんな姿だろう。そういう目でものを見れるかどうかは大きな違いになるよね。単なるドキュメントの目ではなく、その奥の真理を探してく目を持ちたい。
『西洋絵画の主題物語 聖書編』(美術出版社) カトリックを知ると、
今までボワーッとしか意味をなさなかった絵画に親しみがわいてくる。クン ドキュメンタリーと芸術作品の一番の違いはビジョンを指し示すことができるかということだと思うんだよね。今の話を聞くまで写真では無理だと思ってたけど、ただのドキュメント写真じゃなくて神からの目というものがあれば芸術まで昇華できるなと初めて思った。きつい現実を背負った人たちの写真集もモンタージュしながら展望のあるものにまとめることはできる。そうなったら芸術作品と呼べるかもしれないね。
集平 そうだね。ぼくも『はせがわくんきらいや』でデビューしてずっと社会派と言われ続けた時期があったけど、ぼくが描きたかったのは人間なんだよね。
クン そうそう、ドキュメントしたいわけじゃないんだよ。
外海のカトリック墓地で。
信仰の大先輩たちが眠っている。'00年2月。集平 人間の真理を見つけたいと思ってきた。それが結局は信仰に行き当たったんだろうな。
クン 真理と出会う手助けをできるものが芸術作品だよ。
集平 こういう話をしても信仰を哲学的にしか捉えられない人の方が多いかもしれないけど、ぼくらの毎日の営みはどういうふうになってるかというと、起きたらすぐにお祈りして、シューヘー・ガレージでは仕事の前にお祈りしてマザー・テレサの本を朗読。食事の時にもお祈りをするし、ぼくは夕方はロザリオしながら町をブラブラ歩いてる。なるべくミサに出るようにしてる、告解※してゆるしてもらう、と、そういうことでしかないのね。哲学して聖書読んで深く理解するとか、それが全くないとは言えないけど、生活の中心ではないし目的でもない。信仰生活は日々を祈りと共に生きることなんだ。かといってそれを人に押しつけるでもなく、それぞれの仕事を、たとえば鉄工所の人は鉄工所の仕事を一所懸命やる。そっちをおろそかにして教会に行くことばかりに熱心では本当の信仰生活ではないわけ。それは聖職者にまかせてたらいい。役割分担がはっきりしてるところもカトリックのいいところだと思うよ。
でも結果的にこの20年の間にぼくたちと関わって洗礼を受けた人が多かったのは随分励ましになってるね。そのためにぼくらのしたことは何もないけど、ひとつの実りとしてよかったんじゃないかな……つづく(全部読みたい人は通信を申し込んでね)
左から、クン・チャンのエレキチェロのヘッドにたたずむ聖母のメダル、ネックにはイエズスの御心シール。
集平のギターヘッドに不思議のメダイ、ギブソンには親指のマリアステッカー。