ベガーズ・バンケットの招待状●長谷川集平
季刊「考える人」2010年春号 特集 はじめて読む聖書(新潮社)に書いたエッセイを載せます。
カトリック不良信者を自称するぼくの宗教的立場に疑問や興味がある人はまずこれを読んでみてください。
ブラウザで読みやすいように改行ごとに1行アキを入れました。

 イエス・キリストは宴会好きだった。古代ユダヤで汚れとされた賤業や下層の人を集めては呑み食いするので、後ろ指を指された。

 イエスが最初に奇跡を行ったのは知り合いの結婚披露宴だった。客にふるまうワインが足りなくなった時、母マリアにうながされてイエスは瓶の水をワインに変える。母に逆らってみせた後に舞台裏で、新郎の手柄のように見せて。それで弟子たちはイエスを信じたと書いてある。イエスは人を酔わせる。

 天国はよく宴会にたとえられた。お返しができる人は招くなとイエスは教える。見返りを期待してサービスしてはいけない。あ、そうそう、礼拝のことを英語でサービスという。喫茶店にモーニングサービスと書いてあるのを見て、毎朝礼拝する、なんと信心深い店だろうと感心する外国人がいるという話がぼくは好きだ。

 宴会の招待を断る知識人や金持ちの話もイエスはされた。みんな、なんだかんだ言い訳をして来ないのだ。身に覚えがある話だな。ぼくもそうやって断ることがあるし、断られることがある。ライブ? ごめん、その日は約束があってさ、とかなんとか。そんなら来なくていい、ホームレスでもハンディキャップでもだれでもいいから町で拾ってきて席を埋めろと主人は召使いに命じる。こうして寄せ集めの宴会が始まる。天国のテーブルを囲むのは、どう見ても品格ある人たちではなさそうだ。

 ローリングストーンズの1968年のアルバム「ベガーズ・バンケット(乞食の宴会)」はここから来ている。公衆便所の猥雑な落書きを写したジャケットはレコード会社に却下され、ぼくらが最初に手にしたのはタイトル文字だけの白いデザインだった。「悪魔を憐れむ歌」を皮切りに「放蕩むすこ」「地の塩」など聖書をベースにした歌が、ストーンズらしくロックンロールに揺すられ、エイトビートに刻まれ、シャッフルされている。ここにあるのは天使的な純粋ではなく、悪魔的な雑味だ。その意味で中世の世俗音楽への回帰がなされている。

 イエスは言う。神殿で祈るふたりの男。宗教エリートのファリサイ派の人は自分の信仰の優秀さを神前に感謝する。社会から見下されている徴税人は祭壇に近寄ることもできず、遠くで胸を叩きながら、罪深いわたしをあわれんでくださいと嘆く。義とされて家に帰ったのはファリサイ派の人ではなく徴税人だった。

 70年代中ごろ「アイ・アム・アン・アンチクライスト(俺は反キリストだ)!」と歌って世界を蹴散らかしたセックスピストルズのやかましいあれは胸を叩くビートだったかもしれないとぼくは思う。ロンドンで子ども時代からひどいイジメに遭ってきたアイルランド人ジョン・ライドンの歌は幾重にも屈折していて素直ではないけれど、「わたしは救われた、ハレルヤ!」と誇らしげに歌う善男善女よりはあの徴税人に近い。

 イエスのところに金持ちの青年がやってくる。永遠の命を得るために何をすればいいのですか。教えられた掟を守りなさい。すべて守っています。では全財産を貧しい人に分け与えてわたしに従いなさい。青年は悲しい顔をして立ち去る。ほら、とイエスは言う。金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るのより難しい。金持ちですら行けない天国にだれが行けるのだろうと弟子たちはひそひそ話を始める。

 福音書のこの箇所は金持ちをからかうのによく利用される。不況のせいもあるのだろう、格差社会への憤りをイエスの言葉を借りて書いたブログを見た。けれども、ぼくらは福音書のその先を読んでいない。イエスは言う。人間にできることではないが、神は何でもできる。青年が針の穴を通れなかったのは金持ちだったからというよりも、イエスの招きに従って旅立てなかったからだ。

 聖書をべガーズ・バンケットの招待状として読むこともできる。いや、そう読むしかないのかもしれないとぼくは思うようになってきた。キリスト教を斜めに見る時流に長い間慣れ親しんできたために、パウロの手紙を読んでも振り込め詐欺じゃないかと疑うクセがぼくらにはついてしまっている。

 そのことを痛烈に反省させてくれた聖書の読みをひとつ書いておきたい。宮浄めと言われる場面がある。最期の一週間(聖週間)を過ごすため、最後の宴会すなわち晩餐を囲むためにイエスはエルサレムにやってくる。神殿の境内でイエスは商人たちを見る。映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」ではヤクの売人や売春婦や武器商人が出没する闇市だが、実際は神に捧げる生贄を売り、献金を両替する公認の施設だった。「おまえたちは祈りの家を強盗の巣にした」とイエスは商人を追い払う。「…スーパースター」では荒れ狂って市場を破壊する。困惑する弟子たち。マグダラのマリアは「どうやって彼を愛したらいいかわからない」と歌う。ユダもそう歌い、首を吊る。同じ歌を、商売人の息子のぼくも歌いたくなっている。

 通っていた東京の関口教会にひょろりとしたお年寄りの神父が赴任してきた。よれよれの服にサンダル履き。口は重く目は眠く、偉いのか偉くないのかよくわからなかったが、いやいや偉いんですよと教えてくれる人も笑っている。長崎に引越した後に、そのなつかしい沢田和夫神父の『詩のように歌のように』(聖母文庫)というエッセイを見つけた。宮浄めについて書かれたたった一行が目に入ったとたん、ぼくは聖書に感じていたひっかかりやもつれがほとんど解けてしまった。サンダル神父はやっぱり偉かったんだと思った。他の人にどれだけ意味を持つかわからないが、こう書いてあったのだ。

「イエスが追い出してくださればいい。わたしの心からも余計なものを」

 メル・ギブソンン監督の映画「パッション」から最終的に削除された、イエスを死刑にしろと要求するユダヤ人たちが「その血の責任は子孫に及んでもよい!」と叫ぶシーン。古来、誤読されてはユダヤ人迫害を誘発した箇所だ。削除はたぶん適切だったのだろう。イエス殺害の責任はだれにあるかと聞かれた監督は、われわれほとんど全員だと思うとシンプルに答えている。

 毎年、聖週間のミサの聖書朗読で信者たちは「その血の責任は子孫に及んでもよい!」と群衆の言葉をそのまま読まされる。われわれほとんど全員が反キリストなのだということをそうやって思い出すのだ。メル・ギブソンも小さいころから教会で「殺せ。殺せ。十字架につけろ!」と声を合わせただろう。そんなぼくらを十字架上のイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、とっくの昔に赦してしまっている。

 そして自分の横で磔刑にされている男に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、ここに至っても招待するのだ。男が自分の有罪とイエスの無罪を認め、悔い改めたから。男には招待を断わる理由も、断わる余裕もない。


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