集平リアル・セミナリヨ レポート①
集平リアル・セミナリヨ レポート



浦上で絵本の話をしよう

2023年11月3日



リアル・セミナリヨ「浦上で絵本の話をしよう」無事終了しました。 ご近所から、遠方からお越しのみなさん、ありがとうございました!

今回のサブタイトルは「キリシタンと原爆、そして絵本について語る」。
まずはカトリック新聞に連載した『べガーズバンケット』(トクサ文庫 Kindle本)の中から「石垣の上を風が」を朗読。集平さんが小学生のころ、よく遊んだ姫路城の中堀の石垣、公園、カトリックの女子高校と男子高校の運動場と敷地内の教会、中庭のザビエル像が出てくるこの物語のように、小さいころから知らないうちにカトリックと関わっていたと話されました。

サルコーデ・ナガサキ夏「8月9日 幻視」、被爆者が記憶で描いた原爆投下直後の絵、破壊された浦上天主堂や被曝マリアなどの写真をプロジェクターで投影しながら話は進みます。今話している、まさにこの上空で1945年8月9日に原爆が炸裂したのです。
「どうして広島の原爆ドームのように天主堂を残さなかったのか?」と問われることがあります。諸説ありますが、信仰を死守してきた浦上の人たちが祈りの場をいち早く取り戻したかったからという説に説得力があると集平さん。
「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」と言われることがあります。浦上のカトリック信者たちは、原爆の威力が戦争を終わらせたとアメリカ人が言うようなことは思いませんでした。戦争を終わらせるために自分たちの犠牲が必要だった…原爆のことを「浦上五番崩れ」とカトリック信者は呼びます。彼らが受けてきた過酷な迫害、神に与えられた試練、原爆もそのひとつだと言うのです。

1549年にザビエルが日本にキリスト教を伝えるためにやってきます。戦乱続きで荒れ果てた日本を潤すように、キリストの愛の教えはあっという間に日本各地に広まり、記録は失われていますが、おそらく何十万、何百万のキリシタン(=クリスチャン)がいたと思われます。ヨーロッパ最新の思想、教養、芸術文化を教える寄宿制学校セミナリヨ(セミナー)やコレジオ(カレッジ)が作られます。勇敢で優秀なキリシタン武士の活躍は豊臣秀吉を不安にさせます。彼らと主従逆転する時が来るかもしれない。1587年に秀吉は禁教令を出し、キリシタン弾圧が始まります。1597年に京都で逮捕され長崎まで連行された26人が見せしめのために処刑されます。そこから島原の乱で3万7千人が全滅した1637年まで約40年の短期間に日本は同国人を大量殺戮します。さらにキリスト教は徳川幕府によって徹底的に排除されます。そんな弾圧の中、信仰を続ける浦上の人たちは表向きには檀家や氏子になり、秘密裏にカトリックの信仰を組織的に伝承します。彼らを潜伏キリシタンと呼びます。そんな潜伏期間が約250年続きました。

1864年に長崎の外国人居留区に外国人のために建てられた大浦天主堂を日本人は「フランス寺」と呼んで見ているだけでした。「七代後に神父様を乗せたパーパ(ローマ教皇)の船がやってくる。その神父様は生涯独身でサンタ・マリアを敬う方である」と教えられてきた信者たちには期するものがありました、行き来を禁じられている大浦まで、長崎市内を通ったのか、港を船で渡ったのか、物見高い日本人のフリをして教会に入り、聖母マリア像の前でフランス人プティジャン神父に信仰を告白します。神父にも潜伏キリシタンにとっても喜びに満ちた奇跡の瞬間でした。
信徒発見のニュースは世界中に伝わりますが、長年隠してきた信仰を宣言した浦上の人たちは犯罪者として逮捕され西日本各地に流配されます。浦上四番崩れです。流された地で尋問され拷問され、殺されても、ほとんどの人が転ぶことはなく、1873(明治6)年に禁教令に終止符が打たれるまで信仰を貫き通しました。「旅」から帰った浦上村は荒れ果て、茶碗のかけらで地面を耕すことから村を立て直し、独身女性たちは真っ先に日本初の養護施設を作り、子どもたちのために一生を捧げます。浦上の人たちは勇敢でした。
こうして信仰の自由を獲得してからも、長崎のキリシタンはいわゆる差別部落の人よりも差別されてきたという事実を知る日本人は多くありません。よその人にこれを言うと驚かれますが、長崎の精肉業者はカトリック、よそではたいてい被差別部落の仕事なのです。

大正時代、長崎に住んだ斎藤茂吉の短歌に「牛の背に 畠つものをば 負はしめぬ 浦上人は 世の唄うたはず」とあります。浦上人にとっての「世」とは自分たちを迫害した世間です。世間に染まらない。「空気を読む」の正反対です。ぼくも彼らにならいたい。自分たちが心から歌える歌を、必要なら作ってでも歌おうとぼくは思いながら長崎にいるのです。と、心からの想いを話されました。

最後は、『日曜日の歌』の編集者で、集平さんクン・チャンとバンドを組んだあとも音楽活動を続けた鈴木常吉さんの歌を聞き、つい先日チリから集平さんを訪ねてきた、日本の絵本を研究している美術教師のカミさんのお話、カミさんのお土産の『ペドロの作文』というチリの絵本も紹介され、最後にはチリの歌手ビクトル・ハラの曲を聞いて終了しました。

姫路出身、東京生活を経て、長崎在住32年目の集平さんが、これまでにずっと考えてきたこと、考え続けていることを、ひとつひとつ丁寧に大事に語られ、その想いと問いかけに満ちた時間でした。身につまされるお話も。

浦上の人たちの存在を間近に感じながら、爆心地公園の向かいにある会場であったこともその雰囲気を強めたように感じました。浦上地区に住む自分にとって、勇敢な浦上の人たちが生きてきたこの場所で、いまここにいる自分には何ができるのか、ということを改めて考えるとともに、心から歌える歌の必要性を感じる大事な大事な時間になりました。

大きなテーマなので、準備してきた半分も紹介できなかったということだったので、今回を入口に第2回、第3回と続けていきたいと考えています。今後のリアル・セミナリヨにもご期待ください。

(齋藤)


原爆が落ちた浦上の地理を説明。


1868年および69年「浦上キリシタン流配地別人員表」を解説。250年間潜伏し信仰を守り抜いた人々がキリスト教を公言、本格的な逮捕につながる。浦上村のほぼ全員が日本各地に流された。


チリの絵本『ペドロの作文』を紹介。日本語版はアリス館より出版(現在絶版)。


前のページへ戻る