集平リモート・セミナリヨ レポート


第3回
『とんぼとりの日々』を語る

2023年6月21日

1977年 すばる書房


「リモート・セミナリヨ第3回『とんぼとりの日々』を語る」無事終了しました。
リアルタイム参加者のみなさん、ありがとうございました!

1976年、絵本作家として歩みだした集平さんですが、初めのうちは絵本の依頼はなく、バイトでしのぎます。今江祥智さんが月刊「小学四年生」の連載の挿絵を描かせてくれたころから、徐々に雑誌や参考書などの仕事が増えていきます。「高2コース」に描いた絵物語「とんぼ」が『とんぼとりの日々』を描くきっかけになります。自己模倣を嫌い、常に違うスタイルを追求した集平さん。雑誌の仕事はその実験場になります。

集平さんが高校生のころから、叔父で映画監督の浦山桐郎さんが「青春の門」(1975年)の取材で訪れた筑豊の話をよくしてくれたこと、上野英信さんの本や山本作兵衛さんの絵を教えてもらったことが『とんぼとりの日々』を描く、もうひとつのきっかけになったそうです。

1960年代、日本のエネルギー政策が石炭から石油に転換していきます。九州に多かった炭鉱が次々と閉山、大量の炭鉱離職者とその家族が職を求めて関西に移住してくる。小中学校に転校してくる九州の子どもたちとの出会いは集平さんにカルチャーショックをもたらします。『はせがわくんきらいや』の次にそんな絵本を出せないだろうかと考え始めます。時代に翻弄される庶民のありようを、いわば民俗学的に記録する。学者にはできないことが、絵本作家にはできるのではないか。
集平さんはガリ版印刷で「とんぼとりの日々」の小型絵本を作ります。これを見た今江祥智さんの推薦で、すばる書房から『とんぼとりの日々』が1977年に出版されたのです。

集平さんの子ども時代は言葉による差別が今よりひどかった。たとえば姫路の子は東京から転校してきた子を「おまえ、訛っとうな」とからかい、イジメます。不用意に九州言葉で喋った子はボコボコにされてしまう。転校生たちはわが身を守るために慣れない播州言葉や標準語で喋りました。ネイティブの言葉を隠しました。
『とんぼとりの日々』は特に九州では筑豊言葉が変だと笑われることがありますが、それは差別の実態を知らないからだと集平さんは言います。しかし、あの表現で本当に良かったのか、まだわからないと言います。温羅書房から出した『とんぼとり』(1994年)では、あえてリメイクを試みます…その話は『とんぼとり』の回に。

放課後タイムでは、集平さんの表現の原点だというガリ版についてのお話から始まり、参加者のみなさんから質問が飛び交いました。

『とんぼとりの日々』の最後のシーンは、どうしてああしたのか? という質問には、生を描くより死を描くところから始めたのが長谷川集平だったという自己分析もありました。影を描くことで光を、死を描くことで生を表現するところから始めた集平さん。

今回は、学生さんの参加も多く、多様な世代の考え方にも触れられたように感じました。
集平さんご自身による朗読、今日のために準備してくださった様々な資料を交えながらのお話、このような時間をみなさんと共有できることの嬉しさを実感した、あっというの間の講義1時間と放課後1時間でした。ありがとうございました!

(齋藤)


今江祥智「たくさんのおかあさん」の挿絵は切り絵で描く






映画「青春の門」浦山桐郎監督(1975年)タイトルより

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