共作絵本もいっぱい描いてきた集平さん。『はなす』(『たんぽぽのこと』)1983年(文・竹内敏晴、絵と文・長谷川集平)。『かいじゅうのうろこ』、『おんぼろヨット』、『プレゼント』(文・長谷川集平 絵・村上康成)1987年。この4冊は共作ですが、映画監督のように全体をコントロールしたのはぼくなので自作に数えていいと考えていますと、ヨット3部作の第1作目『かいじゅうのうろこ』の朗読からスタートしました。
1974年、美大浪人時代に名古屋の昭和美術研究所で出会った村上康成さんと集平さん。美大で学んだことよりもその画塾で叩き込まれたことが役に立ったと振り返ります。好きなイラストレーターの構図や線や配色など、その後の表現スタイルに発展する研究を2人だけですることもありました。一緒に行った原画展で見つけた谷内こうたさんの『のらいぬ』に感動し、絵本作家になる夢を語り合うライバルでした。
翌1975年、集平さんは武蔵野美術大学、村上さんは愛知県立芸術大学に入学。1976年、絵本作家デビューした集平さんに刺激されて村上さんも上京を決め、すばる書房の編集の仕事をしていた集平さんのあとを引き継ぎます。すばる書房倒産後、村上さんは日暮修一のデザイン事務所でプロの技術を磨きます。そのころ2人で一緒にヨットの絵本を構想します。大西洋に続き1967年に太平洋を横断した1人乗りのコラーサ号、それ以前の堀江謙一のマーメイド号など、ヨットが少年のあこがれだった時代、村上さんが愛知芸大時代にヨットに夢中になったのも、そんな記憶があったからかもしれません。2人でヨットの絵本のダミーを作り、出版社に売り込みますが、ことごとく断られてしまいます。
1979年、新婚の集平さんとクン・チャンが住んだ新高円寺のまわりに、村上さんや親しい友だちが引越してきました。そうやって集まった10人ほどの仲間たちと「こじこじ屋敷」を名乗り、場所を借りて物作りをして売り、草野球チーム「バウワウ」で早朝野球をし、お金を出し合って2人乗りのヨットを買いました。それはヨットの絵本を描くためでもありました。富士山のよく見える西伊豆にヨットを置かせてもらって月に何回かのペースで出かけました。大学時代にヨット部だった村上さんが操縦して1人ずつ同乗する。2人乗りヨットは、かなりスピードが出ます。追い風に乗ったヨットはスピードが出ているのに舟の上はほぼ無風状態、不思議なスピード感です。ツネちゃんに乗せてもらった暴走オートバイとぜんぜん違う。ヨットは順風と同じスピードで水面をすべり、向かい風は受け流しながら斜め前に進む、常に風にぶつかっていくバイクとは違います。この感覚を絵本にしたいとさらに強く思うようになりました。
1980年代は集平さんにとって生きにくい時代でした。バブル経済に浮かれる世間とのズレが大きくなっていきます。『土手の上で』(1982年)でひとつの極みに達したと思い、『はなす』(1983年)以降絵本を描けなくなってしまいます。唯一の表現手段だったバンド、スペシャル・サンクスの解散、これからの絵本に必要なのは集平が言うような心や魂ではなくコンセプトなんだと主張する表現者たちからバッシングを受け、心身ともにバランスを崩します。このままでは危ないと感じたクン・チャンの提案で、浜松〜名古屋〜故郷の姫路、そして長崎〜五島へと旅に出かけました。東京からだんだん離れていって、最後にたどり着いた長崎と五島の風土や人に癒されます。ペーロン大会、精霊流し、海の青さ、美味しい食べ物。五島の最西端に立つ大瀬崎灯台は、ヨット3部作の2作目、3作目に出てくる灯台のモデルになりました。五島の写真のクン・チャンと集平さんは、それまでにない柔らかい表情で笑っています。
元気になって帰京したのですが、家をまた追い出され、吉祥寺ぐゎらん堂の閉店、叔父の映画監督・浦山桐郎の死など、次々と予想外のことが起こり、心の中は嵐と凪が交互にやってくる状態でした。
1983年に『ピンク、ぺっこん』で絵本作家デビューした村上さんは、『ピンクとスノーじいさん』(1986年)でボローニャ国際児童図書展グラフィック賞を受賞します。この受賞と、今江祥智さんの強力な「推し」によって1986年、構想9年にして『かいじゅうのうろこ』の出版が決まります。あと2冊描き足して3部作にしたいという希望も聞き入れてもらえました。娘が産まれた村上さん一家と集平さん夫婦が一番親しかった時期、軽井沢のペンションに泊まったり、みんなで伊豆や長崎〜五島を旅したり、ほんわかとした楽しい時間を過ごしたそうです。眩しい光が満ち溢れているような、ぼくには似合わないかもしれないけれど、そんな気分がヨット3部作に反映されていると集平さん。そして、もう一度『かいじゅうのうろこ』を朗読をして、講義部分を終了しました。
少しブレイクをして、放課後へ。まずは、村上康成さんの『ピンクとスノーじいさん』を紹介。明るくポジティブな気持ちをそっと読者に届けてくれるこの絵本に集平さんは感動します。父親・浦山桐郎を亡くした息子の春彦君にこの絵本をプレゼントしたのは、絵本の最後の「はるは すてきです。はるは まぶしいです。はるは だいすきです。」という「春」への思いを届けたかったからでした。町で生まれ育った集平が人間を描くなら岐阜生まれの自分は自然を描く、彼が得意な野球でいえば、ポジションがかぶらないようにしたのではないか、あいつがセカンドならオレはキャッチャーというような、と集平さんは言います。
『かいじゅうのうろこ』の絵は、模造紙にカラーマーカーで描かれています。これは見せておきたいと、怪獣のウロコの部分を拡大します。村上さんはウロコ1枚を描き、乾いたら隣にもう1枚のウロコを描き、同色の重なりで輪郭を表現している。根気のいる仕事です。絵を描くスピード感を大事にしている集平さんと、じっくり時間をかけて描いていく村上さんの違いはここでも顕著です。
この怪獣は男と女、どっちなの? と原画を見た集平さんは村上さんに聞いたそうです。答えは女。描いているうちにノン(村上夫人)に見えてきたんだよ。トリゴラスは男、大人になりきれていない少年、この怪獣は女…読者はどう見えてもいいと思うよ。
共作の面白さは、予想もしなかったものが出てくる。資質の違う2人が作ったヨット3部作は、異種格闘技戦のベスト・バウトのように奇跡的にうまく行ったんじゃないかな。1人ではできないことができたと思う。
放課後では、みなさんからの質問にも丁寧に答えます。実際の絵の大きさはどれくらいなんですか? という問いには、およそ原寸大です。印刷を綺麗に見せるために1.2〜1.5倍で描くことが多いです。逆にインクの染みを見せるために、小さく描いて印刷で拡大することもあります。デザインを学んだぼくたちは、原画そのものよりも印刷されたものの方が良くないと、いい原画ではないと思っている、印刷されると原画の良さが半減してしまう、と考える作家もいるけれど、自分は印刷されたものを想定して原画を描いていますというお話に。印刷が良くない場合、破棄して刷り直すこともあるそうです。
作家やものづくりをしている参加者の悩みを聞き、相談にも乗ります。いい状況だとはいえない今の児童書出版ですが、それでもなんとか良くしていきたい。通り道は違うかもしれないけれど、行き先はみんな同じだよ。子どもたちの幸せのためにぼくらは本を作ってるんだ。賢くなって協力しあって行こう、仲間になろうと親方のように話す集平さんです。
『かいじゅうのうろこ』は今日初めて見せてもらいましたという参加者の方は、怪獣のウロコを捨てて、帰ってみんなに何も語らないのはどうしてですか? その辺を教えてくださいという問いがありました。大事なことを胸に秘める、言いふらさない、口を閉ざす…個人というのはその胸に秘めたものが作るのではないかと思うのです。胸に秘めていたものを話したくなる人が現れることもあるし、現れないこともある。死ぬまで言えないこともある。天国に行った時にそれを解き放てるのではないかとぼくは思っています。『かいじゅうのうろこ』の主人公は口を閉ざしますが、次作『おんぼろヨット』の主人公は胸に秘めていたことを少女に打ち明けます。
絵本で何を話せばいいのだろう? と考えた時に、それまでだれにも言わなかった、胸に秘めてきたことを話す、表現するんだと、そう思って創作をしていますという言葉には参加者の多くが心を打たれたと思います。いつもいい質問をしてくれてありがとうと言って集平さんは放課後を締めくくりました。
放課後では、参加者のみなさんと今日の感想を言い合ったり、ちょっとした質問でもあらゆる方面で集平さんが答えてくれることも醍醐味です。見逃せない聞き逃せない次回の予告もちらり。(次回は歌を歌ってくださるそうですよー)毎回、さまざま側面を見せて聞かせてくださる集平さん、濃厚な時間をありがとございました。
描いた順番で作品を語ることで見えてくる時代の流れ、それを動かす芸術文化のお話、現在進行形の唯一無二の絵本講座。リモートの特性を活かし、日本全国、海を超えて世界中に広めて、これからもたくさんの方とこの豊かな時間を共有したいと思っています。2年目の集平セミナリヨもどうぞよろしくお願いします。
(齋藤)
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1974年 名古屋・美大浪人時代。○で囲ってあるのが集平と村上康成。

1984年の旅・名古屋。昭和美術研究所跡。

1984年の旅・長崎。ペーロン大会。

1984年の旅・五島福江島。元気になった。集平とクン・チャン。


集平の1980年代。●クリックで拡大 |