── 大阪・姫路ライブから1週間経ちました。
集平 お疲れさまでした。
クン やっとツアー再開ですね。
集平 そうだね。弾みをつけて、これからは間を詰めてやりたいな。'00年にクンが脳梗塞で倒れたときは、ツアーはもう一生できないと思った。'02年に滋賀県能登川町で原画展と復活ライブをやったあとまた間があって、単発ではいくつかあったけど、'03年クンが楊名時太極拳長崎県支部を立ち上げてからの10年間はライブどころじゃなかったね。この通信にも「今年こそは」と書いて何とかしようとはしてたけど。
今回のライブは春に出した『およぐひと』がきっかけなんだ。編集者の綱(つな)さんの呼びかけで京阪神の子どもの本関連の人、出版社をサポートしてる先生方などを集めて京都で懇談会したんだよ。とてもいい集まりで、その場で7月の講演会が決まった。在日コリアンの人がたくさん住んでいるところの学校の先生で足立さんという人が『およぐひと』を真っ先に避難ママの会に届けてくれて、会の人たちもあの絵本を気に入って、出会いの場にしたいということだった。あの講演会は新聞記事にもなったね。あんなに取り上げられたのは初めてだった。
── 新聞が2社、雑誌が1社。
集平 講演会には教育に携わってる人が来てて、今度はこれしようあれしようっていうアイデアもいっぱい出てさ。プロの場に持ち込んでくれたなと思ったよ。ここから繋がっていくと。
クン 来週の滋賀の講演会もその時参加してた人の依頼だもんね。
集平 講演会自体は準備期間が短くて学校の忙しい時期だったのであんまり人は集まらなかったけれど、足立さんは今度はもっと準備してやりたい、まずライブをやりましょうということで12月7日に決まったんだ。
クンが太極拳の長崎県支部長を退いたのが?
クン ことし2月の総会のとき。
集平 うちの仕事が3割で太極拳が7割ぐらいの比重だった。支部長をやめるやめないのストレスで腰痛になって、去年の秋からしばらく立てなかったね。夏になってもクンが重いチェロを持って歩くなんて考えられなかった。
ひとりでギター弾いて歌うのは、ぼくいまだに自信がないよ。でも、去年ことしと大学の往復にひっかけてひとりで歌ってみて、悪くはなかったんだよな。ぼくが音楽をやる人だという認識が周りに出てきたし。大学のギャラリーで歌ってる姿を見て、普段と全然違うってみんな驚いてた。そりゃそうだよ。講演で喋っても音楽は想像つかないし、CD聴いてもわからないと思う。最初、足立さんもソロライブを考えてたらしい。大阪のホールで、宿泊費は出る。交通費は大学の往復にひっかける。最初は学生の瀧本満(うっくん)とやろうと考えたんだけど、どうせなら本来のシューヘーのスタイルでと……。
クン キチッと仕込んでくれるならわたしも一緒にやりたいってワガママ言って。シューヘーの音楽はふたりでやるのが本当の形だから、ソロじゃ漫才を相方無しでやるようなものだよ。
集平 それから姫路で書肆風羅堂っていう古書店をやってる詩人の大西隆志さんに声をかけて連チャンになった。この時点ではクンがまだチェロをスイスイ運べる自信がなかったので、サポートで曽我も自腹で参加することにした。だんだんクンが回復して、リハーサルを重ねるうちに本来のノリが戻ってきて、前よりいいんじゃないかって気がしてきて。
クン シューヘーは今が一番いいよ、きっと。
集平 結果的にお客さんがいっぱい来てくれてCDやグッズも売れて、曽我とクンの交通宿泊費も出たね。プラスギャラも多少稼げたんで良かった。
12月7日(土) 大阪・玉造さんくすホール
集平 玉造さんくすホールは地元で信用のある貸ホールで、もともとミシン工場だったんだって。有山じゅんじ、中川イサトなど有名どころのフォーク系コンサートや、米朝一門の若手の落語会を定期的に開いてる。あの付近は落語にとっても大事な土地らしいよ。いやあ、いいホールだったね。10月に下見に呼ばれて、ただ機材を確かめるだけだったんだけど……つづく
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さんくすホール、リハーサル風景。PAはオーナーの小野さん。
デジタルミキサーは集平が見ても何のこっちゃわかりませんでした。
小野さんの友人のおかげでスムースなセッティング。
左が集平の使ったアンプ・シュミレーターDI。右がクンの使ったアコースティックDI。クンはこれの前にアナログディレイをかませました。
ホットな会場に影響されて演奏者もだんだん心身がほぐれていく。
ソロで歌う集平。8日の書肆風羅堂。
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