
聖ヴェロニカ/1420年頃/ミュンヘン/アルテ・ピナコテーク
●疾風知勁草(疾風に勁草を知る)
「勁草」とは、強い草である。風のおだやかな日には、強い草も弱い草も区別がつかない。だが、ひとたび疾風が吹き荒れると、弱い草は地べたに這いつくばってしまうが、強い草は叩かれても叩かれても、頭を上げてまっすぐに立とうとする。疾風の吹き荒れる日にこそ、勁草の真価が発揮されるのだ。
人間もそれと同じこと。平穏無事な日々には、強い人間も弱い人間も、見分けがつかない。困難や逆境に出会ったときに、はじめてその人間の真価が発揮されるのだ。「疾風に勁草を知る」とは、こういう意味に他ならない。
詩人も、「人間、行路難し」と嘆いているように、人生には困難や逆境がつきものだ。そこでくじけたのでは、なんにもならない。そんなときこそ、頭を上げ、背筋をしゃんと伸ばして歩きたい。疾風に耐える勁草の姿を見習いたいものである。
守屋洋著『中国古典 一日一言』(PHP文庫)から。中国古典の入門書としてもお勧めの一冊です。同じような言葉に「厳寒知松柏」がある。打たれ強い人間になりたいなあ。(5/9)
●どこまで行くことができるかではなく、どのように人生の旅路を歩むかが大切なのです。
ウィリアム・J・ベネット著『モラル・コンパス』から。そして日々の習慣の積み重ねが人生なのだ。(5/2)
●女性は家庭の中心です。女性が、自分自身の存在の理由をはっきり知るように祈りましょう。愛し、愛され、この愛を通して世界の平和の道具になるように。
一日遅れのレッド・ゾーンです。今週も『マザー・テレサ 日々のことば』の今日の箇所から。すべての人には存在理由があるから神様が生かしてくださってる、自分は何をするために生をいただいているのかを日々考えながら生きていきたい。励まされます。(4/26)
●聖書にはこう書かれています。
「私は慰めてくれる者を探した。
しかし見つけることはできなかった」
イエス様は、
彼を慰めてくれる人を探しておられます。
その姿は、あなたの子ども、あなたの夫や妻、
あなたの隣人なのです。
あなたはそこにいますか?
さあ、決心しましょう。
「私は子どもたちのためにそこにいます。
私は夫(妻)のためにそこにいます。
私は隣人のためにそこにいます。
言葉だけではなく、
私の分かち合う心と犠牲の心によって」
不機嫌な顔つきの代わりに美しいほほえみを、
乱暴な言葉の代わりに
美しい言葉をかけましょう。
相手を慰めることのできる人であるように
努力してみましょう。
『マザー・テレサ 日々のことば』の今日の箇所から。
楊名時先生の本に「五和気」という言葉があるのを思い出した。「心和気、身体和気、目和気、顔和気、言葉和気」和気、和やかな気。
いつも自分の陰気な感情に打ち勝つことができますように。明日は夫の誕生日。(4/18)
●何もしないでいる人は悪を働いている。近東のことわざ
金銭に恵まれた人でも、何もせずに無駄に時を費やしてはならない。人はみな社会の一員であり、社会からいろいろの恩恵を受けている。だから、自分の方からもそれにこたえて、社会の利益を計らなければならない。
怠惰は罪である。社会を裏切るからである。
”自分の平和を乱さないために、他人のことに干渉しない”という人も犯罪者である。なぜなら、たくさんの人々が公益のために働いているのに、かれは、恩恵を受けるだけで、それに報いようとしないからである。
”他人に迷惑をかけたくないから他人のことに干渉しない”というのも、無益な口実である。ほうとうは、他人のことより、自分がわずらわされることを恐れている。
何かしようと努力する人は、人からよく非難される。しかし、人の非難を恐れて善をなまけるのは、さらに悪いことである。
さて、善を行うのなら、方法や目的はどうでもよいと思うのも間違っている。善はよく行わなければならない。クベルティーノの聖ヨゼフは、次のような詩を書いた。
ただ、恐れのために善をする人は長つづきしない。
習慣だけで善をする人は、進歩してもしれている。
仕方なしに善をする人は、身を捨てて皮をとる類である。
愚か者のように考えなしに善をする人は、器をもたず水を汲みにゆくのにひとしい。
虚栄のために善をする人は、むなしいうわさだけしかえられない。
欲望のために善をする人は、ますます悪くなる。
なおざりに善をする人は、元も子もなくしてしまう。
無分別に善をする人は、効果があらわれるまで落ちつけない。
楽しみのために善をする人は、聖人にも義人にもなれない。
清い愛から善をする人は、心も魂も神にささげる。
さて、私たちはこのいずれでもないだろうか?
先週は秋月でお花見してきました。休んでしまってごめんなさい。またまたバルバロ神父の『三分の黙想』から。無欲に行う人になりたい。(4/11)
●憂鬱は悪魔がわれわれに、大好きなふしをきかせるフルートである――ジュリアン・グリーン
バルバロ神父著『三分の黙想』から。うーん、心をいつも祈りで満たして悪魔が入ってこないようにしようっと。(3/28)
●「つらい!」というのか。そんなことは、百も承知している。しかし、前進せよ。報酬、しかもあの素晴らしい報酬を受けるのは、勇敢に戦った人だけなのだ。
●あなたは皮のむけたときのように、非常に敏感だ。わずかなことにさえ感覚が苦しむ。すべてが罪への誘惑になるようだ。
くりかえして言おう、謙遜になれ、そうすれば、そのような状態からぬけ出すことができるだろう。そして、苦痛はよろこびに、誘惑はゆるぎない確信にかわるだろう。
ただし、それまでは、努めて信仰を活き活きとさせよ。心を希望でみたせ。たとえ口にするだけだと思えても、たえず「愛徳唱」をとなえるがよい。
ホセマリア・エスクリバー著「道」から。今日は聖金曜日、キリストの命日です。イエズスを死に追いやった自分の罪深さを想う一日にしたい。(3/21)
●「我々は主の旅芸人である。人間を霊的に励まし、人間を精神の喜びへと導く旅芸人以外の神の僕に、いったい何が表現できるというのか」アッシジの聖フランシスコ
●イエスの真の後継者は貧困の中に現れるはずであった。(フランシスコ会)は自らを、社会的ランク表の最下方で生き、教会のランク表において乞食よりさらに下に位置する者と表現した。
以下、トマスの一文も、ヴォルフガング・ハルトゥング著『中世の旅芸人――奇術師・詩人・楽士』から。最下層と見なされ、拘わるだけでも罪と見なされていた旅芸人たちに正しく光を当てたのも中世だったのだ。中世の旅はまだまだ続いています。(3/14)
●トマス・アクイナスは『神学大全』の中で日常の大小の喜びを受け入れた。さらに、演技と余暇を彼は、仕事や神を畏れる生活と極めてよく調和できる、人間の正当な欲求として評価した。(中略)トマスは従来から現代まで激しく論議の行われてきたテーマ、すなわち「正当な賃金」に関する問いにも見解を示している。初期キリスト教と中世キリスト教の模範提起者に対する反論において彼は、旅芸人に対してしてはならないとされてきたこと、つまり、彼らの仕事の対する報酬の権利を要求した。「彼らの仕事に対して報酬が支払わねばならない」。
●楊名時先生の5つの戒め「あいおおく」
あせらない・いばらない・おこらない・おこたらない・くさらない
しばしば稽古の中で紹介しています。毎日のいろんな場面で口をついて出てくる自戒の言葉、重宝です。(3/7)
●中世の農民は文字を書くことができませんでした(中略)ところで、中世ヨーロッパの80%は農民だったのです。論理的に言って人口の半分に相当する女性の場合も、事情は似たりよったりです。まれな例外をのぞけば彼女たちも文書を残しませんでした(中略)歴史家は、ある種の制限の中で、彼らの口を開くことだってできるのです。
ジャック・ル・ゴフ著『中世と何か』から。歴史家と同様に、それは作家、詩人の仕事でもある、と思う。本当の歴史は為政者の視点にあるのでは無く、民衆の視点にある。今日はうるう年の一日。(2/29)
●美というものは、本来、何かを欠いたものです。完全な合理主義からは、美はおろかドラマも生まれてはきません――寺山修司
昨夜の満月はオレンジ色で不気味さを称えた美しさだった。
「晴れわたった満月の下で、一人輪になり、おーどーる……」シューヘーの「ドラキュラソング」から。(2/22)
綺麗だから見てください。メキシコの月食です。
●聖性は、限られた人たちの特権ではないのです。聖職者たちのものでもありません。それは、あなたにとっても私にとっても、まったく同じなのです。それは、単純な務めとといえるでしょう。あなたが愛することを学ぶならば、あなたは聖性を学ぶのです。そして、ほんとうに愛することができるようになるために、あなたは祈らなくてはなりません。聖性に向かうということは、神と私自身にかかっているのです。
『マザー・テレサ 日々のことば』今日の箇所から。愛、祈りの日々にしたい。(2/15)
●だれかを傷つけたとわかったら、まず先に謝る人になりましょう。私たちはゆるし合うことが必要だとわからなければ、人をゆるすことはできません。この、ゆるすことこそが愛の始まりなのです。
『マザー・テレサ 日々のことば』の今日のところです。四旬節を犠牲の心がけで過ごせるようにしたい。(2/8)
●中世と言えば西洋に限られる。(中略)中世インド、中世日本というような概念は必ずしも適切であるとは限らない。
●われわれヨーロッパ人にとっての古代から中世への変化はむしろキリスト教に由来する。実際、北アフリカをも含んでいた西ローマ帝国を「ヨーロッパ」になるように条件づけてたものなど、もともと何もなかった。西洋の組織化は、敵として認識される世界と対立する自らの存在を自覚し、一つのキリスト教世界、いやキリスト教世界そのものであろうと欲することによって、はじめて可能になった。
●中世とは、希望である。
前々から気になっていて本屋で立ち読みばかりしていたJ・ル=ゴフ著『中世とは何か』を出来立ての市立図書館で借りてきてやっと読み終えた。
ヨーロッパは中世という長い時間をかけてヨーロッパになったのだ。そしてそれはまさしくカトリックの歴史でもある。ワクワクしながら読み進み中世への興味がますます湧いてくる。カトリックの歴史を知ることは自分を知ることでもあるから。(2/1)
●福者ジェンマ・ガルガーニに聖母がおっしゃられた言葉「始めから、あなた方のために常に永遠に。恐れなく確信しなさい。その通りに歩みなさい。責任を私にかぶせなさい」
『コルベ神父 霊的メモ』から。うーん、マリアさまーぁ。とことんあなたにより頼めるようになりたいです。(1/25)
●ミネアポリスで、脳の障害で絶え間ない発作に苦しんでいる車椅子の女性が私に尋ねました。自分のような人たちは、一体どうしたら他人のお役に立てるのでしょうか、と。
私は彼女にこう言いました。
「あなた方がいちばんたくさんのことをしてくださるのですよ。あなた方は、私たちのだれよりも多くのことをすることができるのです。というのは、あなた方の苦しみは、十字架上のイエス様の苦しみのひとつなのです。そしてその苦しみは、私たち皆を強めてくれるのですから」
こうした絶えることのない分かち合い、共に祈り、共に苦しみ、共に働くことを通してこの世界にすばらしい支援の環が育まれているのです。
『マザー・テレサ 日々のことば』から。こんなに人を励ます考え方を知らない。(1/18)
●今していることをせよ――何も心配するな――きっと、限りなく良きおん父は、常にどこでもお前のためによりよいことを準備えて下さるだろう。――お前がそのご好意に信頼せず、色々なことに心をわずらわすとき、お前は、この良きおん父に不快な思いをさせているのだ。
『コルベ神父霊的メモ』(聖母文庫)から。とにかく今日成すべき事をもったいつけたり、言い訳で逃げたりせずに精いっぱい尽くせるようにしたい。(1/11)
新年おめでとうございます。今年の干支「子」についての一文をご紹介します。
●「子」を解字すれば「了」(おわり)と「一」(はじめ)。つまり子とは終わりと始めを一つに束ねるところである。(中略)「子月(旧11月)」は陰がつきて新たに一陽が初めて萌すという「子」の象徴する「一陽来復」は冬至を契機に陰から陽への転換の軌であると同時に、陰気の終わりと陽気の始まりの二者を一つにしていると見なすことができる。また「混沌」「太極」を「子」が象徴するとも言われる。
「子」年が本来持つ「一陽来復」に期待をかけたい。陰がきわまり陽がまた来るのである。冬が去り春を迎えるのである。逆境にある人やお年寄りだけでなく、どなたにも災いを転じて福とかえる年になることを願っている。
楊名時著『<太極>巻頭文集』から(クン・チャン構成)。また一年よろしくおつきあいください。(1/4)
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