チェロギタ・ロック
●長谷川集平とクン・チャンからなるライヴ・ユニット「シューヘー」こそチェロギタ・ロックのパイオニアである。
●チェロとギターという組み合わせは、非常にフレキシブルで魅力的なものなので、今後この構成のロックユニットが続出するかもしれないが、一応シューヘーが元祖。
●チェロがロックで使われることはなにも新しいことではない。古くはビートルズが小編成の弦楽を起用したし、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンは「グッド・ヴァイブレーション」や未発表アルバム「SMiLE」でチェロを積極的に採用している。ニルヴァナもチェロを好んで使っていた。
●ギターとチェロだけの組み合わせとしては、マルチ・プレイヤー夫妻ナンシー&ノーマン・ブレイクが時々採用するし、アーロ・ガスリーがレコーディングした「放浪者の子守歌」の印象深い演奏など、探せばいくらでもあるだろうが、シューヘーのように、すべてのレパートリーをチェロギタで演ってしまうユニットは前例がない。
遍歴
●姫路出身長谷川集平は、その著書『はせがわくんきらいや』にもあるように、小さいころからピアノを習っていた。が、おりから起こった関西フォーク・ブームにイカれ、ギターを手にする。高田渡がアイドルであった。集平はのちに高田渡のアルバム『ねこのねごと』に参加して初心を果たす。71年ごろ姫路のブルーグラス・バンド「カントリー・ナッツ」にスカウトされ、高校時代はマンドリン奏者として当時のジャズ喫茶などに出演。ライヴ歴は30年を越えるわけだ。
●長崎出身クン・チャンは、ピアノを習ったりバレエをやったりする少女時代。しかしどちらかというと体育系の青春時代を過ごす。
●ふたりは武蔵野美大で知り合い、そのころ集平ののめり込んでいたブルースを聴きまくり演りまくり泥沼にはまってゆく。集平は弟とのユニット「パ・リーグの話題」のほかにあちこちでセッションにいそしんでいた。76年に集平は絵本作家デビュー。やがてブルーグラス・バンド「グラスチック・ブルー」を結成。京都円山公園でのライヴに高石友也に招かれたのが初ステージになる。集平のマンドリン、クンのベース、とギターとバンジョーという編成でオリジナルやブルースを演奏。吉祥寺のぐわらん堂が拠点となった。
●バンドは解散。クンはカメラマンとして多忙。時代はテクノ。集平は奥平イラの指導のもとシンセサイザーに凝る。ひどい時はホワイト・ノイズで作った波の音を聴きながら食事をしたほどである。
●82年パンク・スカ・バンド、スペシャル・サンクスを結成。4人編成。集平はエレキ・マンドリン、クンはベース。渋谷の屋根裏のレギュラーとして名を馳せる。83年解散。
●そして2人だけのユニットが始まる。エレキ・マンドリン、ギターとベースにリズム・ボックスを使ったアヴァンギャルドなスタイルでぐわらん堂を根城にし、このフォークのメッカの閉店ラスト・ライヴを高田渡と務めた。
●このころ来日した前衛ギタリスト、フレッド・フリスのユニット「スケルトン・クルー」に強い衝撃を受ける。2人組のかたわれトム・コラの時折り弾くチェロがイカしてた。クンはチェロを始める。ここからオリジナルの音楽の試行錯誤が加速度をつけていくのだった。リズム・ボックスは捨てた。
シューヘー誕生
●スタイルが安定し、吉祥寺MANDA-LA2に定期的に出演するようになり、ユニット名を「シューヘー」に定着させたのが88年春。レパートリーもこれまでのものをチェロギタ用に編曲するだけではなく、チェロギタを前提に書き下ろしたものが増えてきて、まさに前代未聞サウンドが姿を見せてきた。
●91年シューヘーは、長年住んだ東京に見切りをつけ、長崎に引っ越した。この東西文化の十字路、近代日本精神の発祥の地で、チェロギタ・ロックは新たなアイデンティティを得ることになる。
●92年春、集平は路傍の石文学賞を受賞。授賞式会場となった室内楽の殿堂カザルス・ホールにシューヘーで出演。後にも先にもここで演奏した唯一のロック・バンドとなる。年末にはファースト・アルバム『シューヘー』をリリース。自宅スタジオで全曲一発録りという大胆なアプローチで大向こうをうならせた。このころから、下村誠らと西日本と東京を中心にこまめなライヴハウスまわりを続け、その神出鬼没ぶりに「幻の不気味バンド」異名をほしいままにする。そして今も地道に各地にファンを増やし続けている。
●94年春、セカンド・アルバム『チェロギタ・ロック』発表。低予算に応じるPA機材持参出前ライヴも始まった。シューヘーは色濃く充実していく。
●95年春、サード・アルバム『二人三脚(three-legged)』発表。●96年秋、4枚目『ワカンナイド(WHATCANIDO)』 発表。
ユニット消滅の危機を乗り越え再生
●99年の暮れ、サーバー立ち上げのための急激なコンピュータ作業が災いしてクン・チャンが脳梗塞になり、言語障害と右手麻痺に陥った。楽器演奏はおろか、日常生活もままならない状態が続いた。ふたりは外科手術を避け、生活習慣をあらため、中医学、太極拳、麦飯石サウナによる遠赤外線浴、波動値の高い湧水を生活に取り入れるなどして克服。2002年春に2年ぶりの復活ライブを能登川町立図書館で感動的に成功させた。この空白期を乗り越えることで、シューヘーの音楽はまた格別の味わいをたたえるようになった。
●ライブができなかった間、集平はひとりアイルランド伝承のティン・ホイッスルにのめり込み、この愛すべき楽器を自分のものにした。シューヘーに新しいレパートリーがもたらされ、ホイッスル1本だけのソロ・アルバム『My Generation』(2002年12月発売)は音楽再発見の喜びに満ちた心の旅の記録になった。
●復活後、長崎、大分、鳥取、和歌山と演奏の機会を少しずつ増やしていく。2013年12月7日の大阪・玉造さんくすホールと翌8日の姫路・書肆 風羅堂はシューヘーのベスト・ライブだった。
●2014年9月に予定されていた東中野ポレポレ坐のライブ直前にクン・チャンが再び脳梗塞で倒れ入院。モヤモヤ病という先天性の難病だったことがわかる。
●4ヶ月半の入院後、治療とリハビリを続けながら生活を徐々に取り戻すが、左手麻痺でチェロが弾けない状態が続く。集平は時々ソロ活動をしながらクンの復帰を待つ。
●2020年12月に受けたボトックス注射によってクンは少しずつチェロが弾けるようになり、2021年の夏ごろから集平と二人でリハーサルを重ねる。
●2022年3月19日に姫路文学館の「絵本作家 長谷川集平の仕事展」で2度目のシューヘー復活ライブ。コロナ禍に100人集まった客席から喝采と祝福を受ける。1週間後に長崎孔子廟の集平セミナリヨでも演奏。こうして8年ぶりにチェロギタ・ロックが帰ってきた。ザ・ショー・マスト・ゴー・オン!
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